廣瀬 仁先生

米国での研修 1 ECFMGまで

 私が母校の長崎大学医学部を卒業したのは1990年である.医学部生の間,テニス部に所属.テニスの腕はいっこうに上達しなかっただが,6年間のうち4年間を主務をつとめた関係上,いろいろな科に属する先生方と話をする機会があった.そのコネを使って夏休みなどは,様々な病院で臨床見学をした上で,将来は心臓外科医になろうと決めたのは6年の夏であった.それと前後して,私の学年では英文論文を読む会,英文教科書を読む会などがいくつかあり,テニス部引退の時間的余裕の中,そのような会に数回出たりもした.しかし,やっている内容はほとんどわからずじまい.自分の英語力のなさに驚いた.しかし,継続してやっている同学年の連中に聞いてみると,英語ができなければ論文も書けないし,論文を発表しても質問攻めに会いしどろもどろになり恥をかくことになるという.それでは,とりあえず卒業して,卒業後の一年はどこの科にも属さずに英語の勉強を海外でやろうと決めたのが9月の卒業試験が始まる直前だった.ただ英語を勉強するだけではつまらないので,1年で英会話はもちろんだが,アメリカの診療資格の第一歩であるECFMG試験を受けようと決めた.卒業試験,国家試験の勉強の合間に,ECFMG問題集をこなした.ECFMG問題集の解説を全部読む暇はなかったが,問題の正解率は徐々に上がっていった.卒業試験が1月中旬終わり,ECFMG試験が1月末であった.卒業試験と重ならない科目,例えばBehavior scienceなどは問題集をやっただけだった.当時のECFMG試験は,7月と1月の年に2回.試験会場は日本では東京と那覇の2カ所だけだった.会場には約200人程度が来ていた.その当時聞くに合格率10%.問題は多く,一問あたりの時間は40秒.国家試験の一問あたり所要時間の半分以下である.問題のいくつか,あるいはセクションの全てが採点されないこともあるとのこと.後で聞くに,それらの問題は統計処理されて,各年度の合格率を調整するために使われるという.私は何も知らなかった.ECFMG試験の後は,国家試験の勉強となりECFMGの結果どころでなくなった.国家試験が4月にあり,その直前にECFMG臨床 (Part II)が合格点数だったと通知があった.はっきりいって,結果には驚いた.合格ライン75で,Part I (Basic Science)が72,Part II (Clinical Science)が75だった.勇気づけられた私は,医学部卒業後どこにも所属せず,7月に第二回目のECFMGを受験した上でアメリカ合衆国ボストンへの語学留学へ出たのだった.
第二回目の結果はBasic 78で合格.しかし,英語が不可.語学学校で日本人同士遊びほうける者を横で見ながら,毎晩図書館でCloseになるまで英語の勉強をした.アメリカでは英語ができなければ人間と見なされないので,少なくとも人間になれるように,多分卒業試験や国家試験の時よりも勉強した.TOEFL580をマークしてECFMGをクリアーしたのは,その6ヶ月後であった.

問題点

  1. 現在の厚生労働省の方針では,卒業後2年間の初期研修が義務である.したがって,卒業後にすぐに海外へ行くというのは難しい状況にある.
  2. 現在はECFMGに代わりUSMLEに統一されており,試験センターへ出向きさえすれば,オンラインにてUSMLEは毎月でも受験可能である.受験の機会は増えたが,日本人の合格率は約20%に過ぎないと聞く.
  3. 当時は知識がなく,ECFMG合格で喜んだが,今考えればそれは間違いであった.ECFMGあるいはUSMLEのスコアは,一度合格すると,そのスコアが一生ついて回るからである.将来レジデントを応募することを考えると,私のように最低合格ラインでの合格は避けるべきであった.レジデンシープログラムディレクターが最初にみるのは,ECFMGあるは,USMLEのスコアーだからである.低いスコアーでは,いくら大学での成績が良くても,アメリカでの教育と同等の教育を受けてきた証明とはならないからだ.アメリカの医学部卒業生のほとんどが,医学部入学前にundergraduateで卒業論文を出し,医学部在学中はリサーチの手伝いなどを自分の業績としていることを考えると,日本の医学部卒業して,しかも業績がなければ,比較対象となるのはECFMGあるは,USMLEのスコアーだけだからだ.きちんと勉強してハイスコアで合格するのが得策である.
  4. 私は,どこの科にも属さなかったので,語学留学中の医学教育が全く抜けてしまった.今から考えると,週に1回でも2回でも,どこかのラボにでも行って十ヶの手伝いなり何なりをした方が,医学教育に穴が空かず良かったかもしれない.

米国での研修 2 一般外科apply

 ECFMG Certificateがクリアーになったのが1991年夏だった.当時はインターネットはなく,手作業だったため,TOFLEの結果がECFMGに反映されるまでに数ヶ月を要したのである.語学留学生活も1年が終わり,最上級クラスへ編入されたのも1991年夏だった.当時のECFMG certificate は有効期間が2年しかなく,有効期間を無期のものに代えるには,有効期間中にアメリカ国内で何らかのレジデントプログラムに参加することが条件だった.そこで1992年6月からのアメリカでの研修に向けて準備を始めた.多くのプログラムはマッチングプログラムが用意したユニバーサル形式の願書を受け入れてくれたが,プログラムによっては独自の形式があり,願書を書くだけでも大変だった.当時のパソコン,プリンターは今ほど自由に使えるものではなく,大学の図書館でさえも,コンピューターは蔵書確認にために使うに過ぎなかった.そのため,カットアンドペーストではなく,実際に紙にのりをつけて貼り付け,それをさらにコピーを取ってもっともらしくするという作業が延々と続いた.
ボストンからインタビューに行ける範囲内ということで,南はバージニア州,西はイリノイ州までの全ての外科プログラム,約100に願書を出した.願書を出しているうちに,プログラムのいくつかは,私が週医師免許申請のrequirementを満たしていないということで願書を返送してきた.よく調べると,多くのプログラムでECFMGの他にFLEX (Federal Licensing Examination)の合格を前提と知るのが判明した.FLEXについて調べていくと,試験自体が1992年にて終了し,その後はUSMLEとなり,FLEXに合格していなれば,ECFMG受験者は合否に関わらずUSMLE再受験ということだった. FLEXは年に2回しかなく,しかもFLEXの受験資格は1年間のアメリカでの臨床経験が必要.なんと,FLEXを受けるにはアメリカ国内での臨床経験が必要で,その臨床経験を得るにはFLEXが必要と,まったく卵と鶏の関係だ.しかも残り時間が少なく,1991年冬のFLEXに受からなければ,1992年のレジデントへの応募は不可能.1992年の応募を逃すと,USMLEをstep 1からやり直し.これには,もう少しでギブアップというところだった.しかし,アメリカは寛容の国でもある.ペンシルバニア州ではアメリカでの臨床経験がなくともFLEXを受験できるとのことであった.1991年の夏以降は12月の試験を目指し,Kaplanという医学予備校に通って毎日FLEX対策に追われた.そして12月,フィラデルフィア市にあるUniversity Pennsylvaniaの大講堂で3日がかりの試験があった.
ところで,100通の願書を出して,インタビューに呼ばれたのは10程度のプログラムに過ぎなかった.インタビューではFLEXを受けており,結果待ちということにした.マッチングの提出が2月末.インタビューで好印象だったプログラムは皆無で,マッチングに不成功の確率が高かった.3月にFLEX合格(合格ライン75で,component I (basic science) 81, component II (clinical science 78).3月末にマッチング結果が新聞で発表された.マッチングはマッチしたことになっていたが,どこにマッチしたかは,さらに1週間が経過した4月はじめに判明した.マッチ先は,ニューヨークのSt. Luke’s Roosevelt Hospital.病院はマンハッタンの真ん中にあり,インタビューでプログラムディレクターと話をしたのは約5分.自分では下位にランキングしたのだが,どういうことかマッチングした.後で話をしてみると,私はハーバード大学で公衆衛生学を学んでいたことになっていた.これは,多分推薦状の一枚がハーバード大学公衆衛生学にvisiting professorとして来ていた日本の先生だったためと思われた.
マッチングの後は忙しい.引っ越し準備,ビザ切り替え,そして私事であるが結婚.プログラム開始は6月下旬.病院側からJ1申請に必要な書類が来たのが3月末.ECFMGへ送り返してJ1に必要なIAP66(今のDS2019)が送られてきたのが,4月末.日本に帰国して,Jビザ申請.ニューヨークの新居に戻ったのが,プログラム開始の1週間前であった.

問題点

  1. 現在はFLEXは存在せず,USMLEに統一されている.Step 3の受験前に1年のアメリカでの臨床経験を要求していることには変わりがない.
  2. パソコン,インターネットが普及した今,NRMP (National Resident Matching Program)では,アプリケーションプロセスを単純化するためにWeb上でアプリケーションを出すことになっている.一度NRMPのweb上にアプリケーションをアップロードすれば,自分の応募したプログラムをクリックするだけである.
  3. レジデンシーアプリケーションの推薦状は,アメリカにいる方からもらった方がよい.新卒の場合,1通は大学学長からと決められているが,他の2通はできればアメリカ国内で臨床をしている方からのがあった方がいいだろう.
  4. ビザの申請手続きは9/11事件後,きわめて厳格になってきている.当時は,福岡在日領事館へ行けば,当日5年のJビザが発行されたのだが,これは過去の話.今は,予約をした上で,書類を備え,パスポートを領事館ヘ預けなければならない.ビザの発行は,ビザのインタビューから一週間以内がほととんどである.また,ビザ申請に必要な書類はJビザ,Hビザなどにより異なるが,ビザ申請用のDSフォームがないとビザインタビューの予約もできないので,早めに受け取ることができるよう発給期間に要請することも必要であろう.

米国での研修 3 一般外科レジデント

 晴れて,St. Luke’s Roosevelt Hospital Center (SRHC)の外科レジデントとなったわけだが,レジデント一年目はインターンと呼ばれ,人類最古の奴隷制の最低身分として過ごすことになる.インターンの仕事は,病歴とりに始まる情報収集業務.自分の意見をどうであれ,何事においても上のレジデントのお伺いを立てなければならない.上のレジデントを通過してアテンディングと直接話をつけようなら,後々あのインターンはコミュニケーション能力がないとされてしまうので要注意.朝は7時の手術に間に合うように,5時くらいから出て回診.手術での手伝い.時にインターンケースというのがあって,術者もやらされる.午後の回診.当直と称する,3日毎の不寝番.
インターン時代は,貴様の英語がわからないという苦情をはじめ,おかしな間違いをしたものである.初めて手洗いした手術では,Why don’t you prescrub?といわれて,prescription cardを書き始めて怒られたり(実際は本消毒の前に簡単に局部を先勝することだった),手術終盤に手術室へ行ったらアテンディングに Are you interested in closing this wound?と聞かれ,No, I am not interested in at all because you have finished all and all what you need is just to close. と答えたら,後ほどチーフレジデントに呼ばれて,こういう場合はYesと答えるのだと厳しく言われたりもした.そう,私は人類最古の奴隷制の最低身分であることを忘れていたのだった.
2年目は,その半分を救急救命室で過ごし,銃創切創などにも慣れ親しんだ.開心術後のICU(Open heart recovery, OHR)も順番で回ってきた.そこである事件が起こった.OHRのローテションは1ヶ月なのだが,ローテーション終了後の数日後,もう一度OHRへ戻れとの命令を受けた.OHR担当のレジデントと交代というわけである.そのレジデントはFMGで英語は上手ではなく,私からみてもコミュニケーションが下手であった.インターンの時,彼と組んでいたときは,上のレジデントからフォローするように指示もあった.さて,その彼がOHRで気胸を見逃すという失策をしでかした.通常ならば,叱責でおしまいとなるところだが,以前のコミュニケーション不足の点も考慮されたようで,二度と臨床の場に戻ることはなかった.
3年目は上級レジデントの仲間入りである.英語がわからないとご託を並べる患者には,私の英語を理解するように努力するように,ぴしゃりと言える度胸もついた.言語に障害を持つ私は,アメリカ人のレジデントと同じ仕事をしてはダメで,アメリカ人の2倍から3倍働いて同程度の評価をうけると常に考えて行動をしてきた.私の外科レジデントのポジションはpreliminaryといわれる1年契約で,毎年preliminaryのレジデントは消えていった.そして,SRHCではFMGとしては初めてのPGY3だった.
大枚をはたいて,コンピューターを購入したのはPGY3になる直前.PGY3では毎月レジデントとアテンディングの前でレクチャーをしなければいけない立場にあった.英語力のなさをカバーするために一芝居打ったのである.当時,スライドといえば白黒,あるいは青白と決まっており,複雑な絵をスライドにするにはその専門家がいた.私がしたことは,今では定番ソフトだが,パワーポイントの導入であった.二色刷から一気に多色刷りカラーになったのだから,カラーテレビ登場と同じだけの効果があった.パワーポイントでスライドを作り,デジタルショップへ行ってスライドにしてもらう.毎回,違うフォーマットでやると,レクチャー後の質問は実際のレクチャーについてではなく,いかにしてスライドを作ったのか,どうやって図表を取り入れたのか,フォントはどうしたといった質問がどっさりきた.コンピューターに慣れ親しみだしたのもこの頃であった.

問題点

  1. 英語は口先で話すのではない.自分の意図を相手に伝えようと努力すれば,必ず伝わるものである.
  2. レジデンシーの途中で首になることは実際にはない.契約違反になるからである.しかしあまりにも問題点が多い場合は,レジデンシーの途中でも臨床から外されることがある.
  3. アメリカのaccredited programで3年間過ごしたことは後に響いてくる.多くの州で医師免許を申請する際に3年間のaccredited programの研修を要求しているからである.Non accredited programでは何年研修しても研修年限として数えられず,州免許申請の際に問題となる.

米国での研修 4 リサーチ

 当然その後のPGY4は険しく,私はリサーチへ回された.扱いはPGY4で,シニアレジデントとしての当直要員でもあった.リサーチは,腹部大動脈瘤に関する基礎研究で,主にタンパク質の解析.勿論そんなことは今までにやったことがない.以前からいるPhDにやり方を聞いて実験をすすめていった.
そこで,私は生涯のメンター,Dr. Tilsonに会うことになる.Dr. Tilsonは外科のプログラムディレクター兼リサーチディレクターで,腹部大動脈瘤の世界では名の知れた人物であった.彼の方針は,どんな小さな発見でも論文にして発表するということだった.リサーチを始めて数ヶ月後に,私は初めての論文を書いた.ドラフトというので,体裁だけ同僚の力を借りて書いたのを提出したのは8月末の金曜日.彼は月曜に戻ってきて,雑誌に投稿しておいたとのこと.投稿したという話を聞いて驚き,また投稿論文も見てさらに驚いた.確かに結果は私のものなのだが,書き方は全く異なっていた.それからの約一年,論文の書き方,査読に対する意見の書き方などを学んだ.その年は,Dr. Tilsonが主催する学会があったことも影響して,一年間で10ほどの論文を世に出すことができた.
私の初めての論文は1996年.それまでは論文というのは和文も含めてまったく書いたことがなかったが,その年の終わりには,Dr. Tilsonの力を借りずに論文を書けるようになった.そんなころ,あるcase reportを書いたところ,雑誌の方からreviewとして取り上げるとの話もあり,その後は論文作成に熱が入った.
初めての学会発表はSociety of Vascular Surgeryだった.発表では完全に上がってしまい,かつスライド映写機の調子が悪く,最初の言葉はなんと日本語で,あっスライド...しかし,その後は順調で質問もうまく交わし事なきを得た.
私がラボにいた頃,アメリカは不景気で,St. Luke’s Roosevelt Hospitalも多分に漏れなかった.病院間の提携合併,レジデンシーの縮小が行われ,6人のチーフレジデントの枠は翌年から5人に減らされた.勿論,人員削減はpreliminary positionである私の削減であった.ラボにいる間,他の外科のシニアレジデントのポジションを探したがみつからず,日本へ帰国となった.

問題点

  1. メンターのいないラボは行っても無駄.私の場合は,外科のプログラムディレクターとリサーチディレクターが同一人物という幸運に恵まれた.
  2. 学会発表で質疑応答ができないならば,学会で発表するべきではないと考える.国際学会で論文を読み上げ,質問にも答えられないのは日本人だけである.
  3. 私は4年間を外科レジデントとして過ごしたが,チーフレジデントを過ごさなかったため,アメリカでは外科のboard eligibleの資格がないのである.勿論,帰国後しばらくして日本の外科認定を受けたのは言うまでもない.
  4. アメリカでの移民ステータスがビザではなく,グリーンカードであればレジデンシーから抜けてもポジション探しのためにもう1年あるいは2年ラボにいることも可能だったであろう.しかし,ビザの規定では研修終了3ヶ月以内に帰国しないと移民法違反になってしまうのである.

米国での研修 5 クリーブランドクリニック

 日本に帰国後,長崎大学,新東京病院,小張病院にて心臓血管外科の研修を行い,外科認定医,胸部外科認定医などの諸認定を受けた.また米国では2001年9月11日には同時多発テロが起こった.そんな中,アメリカ再留学の話がきた.現順天堂大学心臓血管外科教授の天野篤先生から,クリーブランドクリニックでフェローを募集しているから願書を出してみたらいいと話が持ちかけられ,ダメ元で願書を出したのが2001年の12月.願書の再提出をするように要請があったのが2月.3月に再提出後,4月に正式オファーが出た.7月からのプログラム.5月に一度渡米してアパートメントを確保.しかし,それから肝心のJビザ用のDS2019が送られてこない.せっかく送られてきたDS2019にあるサインがレーザープリンターで刷られており無効,再発行などがあり,結局ビザインタビューが6月の第3週,ビザが出て,クリーブランド入りしたのがプログラム開始の5日前であった.
喜び勇んで来たクリーブランドクリニック.心臓を専門とする外科医ならば,誰もが知っている一大心臓専門センター.心臓血管外科病院ランキングでは常にトップで,次点のメイヨーとの差はなんと,クリーブランドクリニック98点,メイヨー75点.手術室は心臓専用が11室あり,スタッフは10人,フェローは25人,一週間で100例程度をこなすマンモス組織だ.
そんな病院でのフェローシップでは,手術もたくさんできて,腕もすぐに上がるだろうと考えたのは,まったく事情を知らない素人の考えであった.まず,フェローの仕事はIMA採取と人工心肺の確立,手術の主な部分はスタッフがやり,あるいは正規フェローがスタッフの監督の下に手術.我々は指をくわえてみているだけといった具合だった.しかし,当直勤務は3日に一度で,2人の当直フェローでICU60床とそれを数倍する一般病棟をみなければならない.毎日の朝回診は5時からでは手術開始までに終わらせることはできず,4時くらいから.土曜日にカンファレンスがあり,土曜もオンコールでなくとも,朝から回診しなければならない.
日常の患者管理で疲弊し,手術の腕はいっこうに上がらずいたが,クリーブランドクリニックのサテライト病院への出向となった.メトロ病院である.症例数は激減したものの,全ての症例で術者をさせてくれた.2004年には,クリーブランドでの症例を主として日本心臓血管外科学会専門医を申請し,許可された.メトロ病院では仕事は実りあるものであったが,ローテーションの都合上いつまでもそこにいるわけにもいかず,本院へ戻ることになった.本院では相変わらず手術主要部分については「見学」であったが,それでもビッグネームをもつ外科医と親しくなり,また複雑な手術とその後と術後管理は大変勉強になった.毎年行われるレジデントリサーチでは,クリーブランドクリニックの巨大な臨床リサーチ部門をかいま見ることも出来,また数本の論文を世に送り出すこともできた.しかし,そのクリーブランドクリニックは2004年で去ることになる.

問題点

  1. 7月開始のプログラムに応募するのは10月頃から話を進めないと間に合わない.正規フェローシップのマッチングは通常1年前に行っていることを考えると,早くすることに越したことはない.
  2. クリーブランドクリニックでもECFMGがスポンサーとなり,Jビザで入った.しかし,臨床系Jビザは2 year ruleが厳密に規定され,臨床Jビザホルダーは,Hビザやグリーンカードの申請は不可能である.しかも,Jビザは1年ごとの更新である.Jビザホルダーの目的は,あくまでも研修であり,トレーニングである.したがって,Jビザでの「トレーニング」期間は週免許の申請ができなかったり,フェロー以上のポジションのオファーされることはない.多くの人たちはJビザのことをジャンクビザというのもうなずける.
  3. Jビザのメリットは,USMLE step 1 & 2で比較的簡単に得られること.Jビザの間はsocial security taxが免除となること.Jビザの配偶者は労働許可証を申請することができるなど.
  4. 認定医の手続きについては,学会への会員参加期間が問題となってくる.今から考えると大学卒業と同時に,外科学会に参加していた方が認定医をとるには早道だったと考える.ちなみに外科指導医は認定医となってから10年しないと申請資格がない.
  5. 認定医の目録提出には,患者のID番号,生年月日,診療開始日,手術日,診断名,主な手術名などが必要となってくるので,日頃からログをつける習慣が必要である.私は,自分の手術した患者については,それらの情報をコンピューターに入れて管理している.
  6. 日本の認定だけでななく,この時期には,各学会のFellow認定を得た.Society of Thoracic Surgeryをはじめ,American college of cardiology, American college of chest physicianなどである.また雑誌の査読委員をはじめたのもこの頃であった.

米国での研修 6 ドレクセル大学ハネマン病院

 2004年の春,私は順天堂大学心臓血管外科天野篤教授と共にフィラデルフィア市にあるドレクセル大学ハネマン病院を訪れた.手術見学をしたところ理想的なteaching環境があり,また日本で盛んに行われているOPCAB施行率が80%であることを知った.クリーブランドに戻って早速ディレクターであるDr. Wechslerに手紙を書いた.結果は7月以降にフェローの空きがあるので来てもいいとのことであった.クリーブランドクリニックからはJビザの施設間移動は問題ないとのことで,当然ECFMGがスポンサーとなるだろうと考え,それでも時間の余裕をみて8月に移動とした.
しかし,ビザの問題は深かったのである.まずECFMGが心臓外科3年目のスポンサーを拒否.クリーブランドクリニックで2年後で何を学ぶのかはっきりしないということと,以前にニューヨークで外科研修したときに4年間スポンサーをしていたことも問題となった.10回程度の電話カンファレンスの末,minimally invasive off-pump CABGを学ぶためとして1年間限りのJビザが出ることになった.問題はそれだけで済まず,ペンシルバニア州ライセンスを申請するに当たりJビザのトレーニングが問題となった.ハネマン病院側は臨床JビザからHビザへの変更ができないことから,トレーニングライセンスの発行は不可能と言ってきたのである.臨床Jから切り替え可能なビザはOビザのみということで,ECFMGへ対してはJビザ申請をしながら,弁護士を使ってOビザ申請を行うという二枚舌の戦法に出た.クリーブランドクリニックとECFMGがスポンサーとなったJビザ有効期限は切れており,不法滞在となるまで数日を残すところであった.ドレクセル大学でのJビザを確保した後,フィラデルフィアへ引っ越し.翌日から病院へ行こうとしたところで待ったがかかった.
ペンシルバニア州ライセンスの件である.病院からのトレーニングライセンス発給不能という次点で,フルライセンスの申請に取りかかったのだが,IMGにとってはかなり複雑な仕事であった.医学部から臨床研修時間を書いた書類を取り寄せるにに大幅に時間がかかり,医学部学生課の担当の方には大変お世話になった.結局6月に申請を始めてライセンスがおりたのが10月であった.
ライセンスが出たのだからこれで全てクリアーと思ったが,もう一つ問題が出た.医師過失保険(Malpractice insurance)である.クリーブランドクリニックではフェロー全員が過失保険に自動加入となっていたのだが,日本にいたとき加入していなかったことが問題となり,病院勤務オーケーが出たのはThanksgivingあけであった.年が明けて2005年1月にはOビザが許可となり,病院ではフェローのままであったが,大学からはFacultyの身分となった.2007年からは Clinical assistant professorと肩書きを得た.
ハネマン病院ではその後3年の間に,心臓移植25例を含む,約600例の手術のほとんどを術者として手がけることができた.クリーブランドクリニックでの手術のほとんどが,メトロ出向中を除けば第一助手であったことを考えると,トレーニングの質に雲泥の差であった.OPCABも術者として,しかも回旋枝領域のOPCABも十分にさせていただいた.おかげでOPCABも自信がつき,一時帰国した際に順天堂病院にて数例のOPCABを問題なく施行することができた.
私の日本とのつながりは,順天堂大学天野教授を介しており,2005年には順天堂大学助手.同年同大学で博士号取得後は非常勤講師となっている.さらに,2006年には,順天堂大学心臓外科医局からコロンビア大学で研究留学していた先生をハネマン病院へフェローとして勤務する手配をしたり,毎年順天堂の学生を研修に受け入れたりして日本と連携している.

問題点

  1. Jビザの施設間移動は簡単ではなく,ECFMGスポンサーの場合,ECFMGにお伺いを立てることが必要となる.
  2. ライセンス申請で大学からの書類がもっとも時間がかかった.申請書を全て日本語に訳し,記入例を添えて大学へ出した.しかし,夏休みとも重なり難渋した.
  3. 2004年8月にクリーブランドクリニックを辞めた後,9月から11月末まではドレクセル大学のリサーチフェローであった.リサーチフェローの年俸は2万5千ドル.臨床フェローの半分であったが,引っ越しなどで銀行残高がゼロに近づいている段階では何も言うべきことはなかった.
  4. 臨床の年俸は,クリーブランドクリニック時代で5万5千ドル程度,2004年のドレクセル大学ハネマン病院採用時で5万7千ドル,2006年6万5千ドルプラス関連病院手術一件につき500ドルのボーナスで,計8万ドル程度.2007年は7万ドルプラス80時間以上の超過勤務手当で,計10万ドル程度であった.
  5. 正規フェローは勤務時間80時間ルールというのが定着し,当直あけの手術はすることができなかったが,私は正規フェローではなく,大学職員と言う形もあることから,80時間ルールを適用されることなく自由に手術することができた.
  6. 正規フェローであっても行状が良くなければ,フェローシップの途中でも辞めさせられる.私と一緒にいた正規フェローの一人は,もともとLazyで仕事をしない.しかも,仕事をしたかのように虚偽の振る舞いをするような者だった.正規フェローは,ハネマン病院では3年のプログラムだが,1年だけで辞めてもらった.その後ハネマン病院では,マッチングでいい加減な者とマッチングするよりは,人望のある海外フェローを採用するとの方針となったようだ.
  7. アメリカのバイパス術のほとんどはOn-pumpなので,もしOPCABを学ぼうとするならば施設を選ぶ必要があると思う.
  8. 日本人心臓外科医が海外留学をする上で問題となるのが医局とのかねあいである.日本へ帰国することを考えるならば,常に日本の受け入れ先を持っておくことが大事かもしれない.

米国での研修 6 トーマスジェファーソン大学病院

 2008年の年明け.ドレクセル大学ハネマン病院のディレクターDr. Wechslerから申し渡しがあった.2008年7月からはチーフレジデントとしてイギリスからフェローが来る.ついては,私はサテライト(年間症例数75例程度)へ行き,臨床リサーチに専念するようにとのことであった.手術の腕がだいたい人前並みになってきた頃でもあり残念な意向であった.早速数少ない友人に話したところ,フィラデルフィア市内のトーマスジェファーソン大学心臓外科へこないかということにになった.トーマスジェファーソン大学はその年,心臓外科日本人フェローを一人世話したばかりで,内情はよく通じていた.Clinical assistant professorと給与年俸10万ドル,院内当直なしという待遇であった.
ところが,ハネマン病院との契約が8月いっぱいあり辞めるに辞められない状態がしばらく続いた.結局8月中旬で施設をかわることとなった.ジェファーソン大学へ行ってからも一騒動があった.フェローとしての5万5千ドルは払えるが,残りはレジデントして病院当直をすれば支払うことができるとのこと.話が違う.それだったら辞めるとまでいったのだが,結局は病院側がICUのアテンディングとして三週間に一度,週末の当直をすれば,残りの4万5千ドルを支払うことができるとのことで話がついた.フェローとアテンディングの2重の立場である.病院側の協力もあり,3週間でのスピード解決となった.それができたのは,私がペンシルバニア州ライセンスを持っていることと,Oビザできていることが反映した.
手術の内容は,バイパス,弁形成,弁置換,大動脈,VAD,心移植と多様にであった.また,ICUでは,レジデントの教育に当った.ジェファーソン大学では,日本からの学生や先生の短期研修を受け付けている.もし,見学してみたい方がいれば連絡していただければと思う.
私の,アメリカ人の2?3倍働くというモットーが功を奏してか,2009年7月から心臓外科のアテンディングのオファーが出た.ディビジョンのチーフが気に入ってくれて,デパートメントのチェアマンと話をしてくれたようだ.最初は,私がアメリカのBoard eligebleでないことが問題となった.つまり,クリーブランド,ハネマン,ジェファーソンとトレーニングをしてきたが,すべてがnonaccredited fellowであり,正規レジデントあるいはフェローではなかったため,アメリカの専門医資格がないのである.しかし,同じペンシルバニア州でもアメリカのboardなしにアテンディングをされている先生が実際にいることや,日本外科学会認定医がアメリカのboardと同等に評価されるという州の公式見解があり,晴れてアテンディングのオファーが出たのである.

問題点

  1. 私の契約書には,辞める際は3ヶ月前の申請が必要と書いてあった.しかし,私に何かの不手際あるいは事故などで診療ができなくなった場合は,病院側は私を1ヶ月で首にできると病院側に有利な契約内容であった.
  2. 書類手続きが煩雑なのは今までの経験からわかっていた.ハネマン時代から全ての証明書などはpdfファイルとしてコンピューターに置いておき,いつでも取り出せる状態にしておいた.勿論CVも同様である.
  3. 州により,また国により,アメリカのboardと同等の評価となる学会認定が異なる.例えばペンシルバニア州では,日本の場合外科学会認定医と消化器外科学会認定医がアメリカのboardと同等とされている.